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《我らの要するリバイバル》
『その方がくれば、罪について、義についてまた裁きについて、世の人の目を開くであろう。』(ヨハネ16:8)
私の心の中に、いつも大事な祈りとして、教会の霊的復興(リバイバル)があります。そしてそのリバイバルと
は聖書にある様に深い真実な罪の自覚と、十字架の恵みによる罪の赦しと、罪の力からの解放、癒し、
そして御霊に満たされた清い生活、という事です。
過去の大リバイバルにおいて、常に変わらない一つの大きな事柄は、特に深い罪の自覚という事です。
バルトに甚大な影響を与えたブルームハルトの祈りによって起こったリバイバルは、まず罪深い酒飲み
の男の真実な罪の告白と赦しから始まった事が知られています。私がこの度、グラハム大会の委員長の
立場をどうしても引き受ける事が出来なかったのは、この伝道方式では本当のリバイバルに至らない
という思いが、私の心の中にあったからだと思います。
かの有名なオズワルド・スミス師が「我らの要するリバイバル」という古典的な名著で、以下の様な事を述べています。
これが私が祈り考えている事に他なりません。何とかして、古典的な本物のリバイバルがこの日本にも起こってほしいと願っています。
一罪の自覚一
過去の大リバイバルにおいて、常に変わらない一つの大きな事柄がある。即ち、深い真実な罪の自覚である。そしてこの事が、
今日の教会に欠けている致命的な要素の一つである。何と多くの失望的な方法が今日の伝道に見られる事か。御霊の純粋な働き
に比べて、何と浅薄で非現実的な事であろう。決心を強いる事、なだめすかす事、催促する車、起立させる事、手を上げさせる事、
前に出させる事等。また現在伝道集会で用いられている誇示は、ほとんど肉によって為されているかもしれない。
人に訴える事が非聖書的だというのではない。決してそうではない。しかし認罪を伴わなければ、実は結ばれない現代の
伝道には生命と敬虔とがなく、不要な卑俗語が使われ、御霊を憂えしめる軽薄さに満ち、悲しむべき職業主義となってしまった。
この様なものによっては、決して罪の自覚やその結果である霊的な結実を見る筈がない。
真の罪の自覚のあるところには、肉の力による催促もなだめすかす事も、或いは強いる事もいらない。罪人達は強制されないで来る。
その時彼らは、来なければならないから来るのである。深い罪の自覚の為に、彼らは集会から帰って食事をとる事も眠る事も出来ない。
その為、救いの為になだめすかされたり、催促されたりする必要はない。
現代の伝道集会で、伝道者は聴衆にキリストを受け入れる様にと呼び掛ける。これは正しい事である。しかし、ああ、むしろ罪人達が
キリストに受け入れられる為に叫び求めるのを、私達は聞きたい。人々は今日、この様に冷たく形式的な、決まり切った事務的な方法で
救いを受け取る。まるで彼らは神に名誉を与える為、義理で贖罪の賜物を受け取っている様に見える。彼らの目は乾いており、罪の感覚は
全く伴わない。また罪を本当に悔いている、というしるしも見えない。彼らはこうする事を男らしい事である様に思っている。
しかし、あぁもし罪の自覚があったなら! もし彼らが遜った心、真に砕かれた心を持ち罪の重荷に耐えかねて「神様、罪人の私をお赦し下さい」
と叫びながら御前にひれ伏し、あるいはあのピリピの牢番の様に「私は救われる為に、何をすべきでしょうか」と震えながら、生と死を解決する
燃える様な質問をもって御前に出て来るならば、彼らはどんなに素晴しい回心者となるであろうか。
しかし20世紀における私達の福音伝道は、そうではない。人々は、自分が失われた者である事を認めぬうちに救われる様に勧められ、
また彼らが救いの必要を自覚する事なしに、信ずる様に説かれている。果実は実らない先に摘み取られるから、その働きに成果が
伴わないのは当然である。もし私達が聖霊の実を得ようとするならば、まず神は畠を耕されなければならない。また人々が真に信ずる前に、
聖霊は彼らに罪を認めさせられねばならない。神が御業を彼らのうちに成された時に、彼らに信ずる様に説くのは正しい。しかしまず彼らは、
自己の救いの必要を感じなければならない。「主イエスを信じなさい。そうしたら・・・救われます」と言う前に、神の御霊がその働き
をなされるのを待とうではないか。
まず最初に、ピリピの牢番の様な罪の自覚のしるしを見よう。聴衆の苦悶が余りにも深刻になった為、彼らが「私は救われる為に、何をすべきでしょうか」
と大声で叫ばざるを得なくなった時、その時こそ私達は彼らがキリストを信頼し、またキリストを信ずる準備が出来ているのを知る。しかしその時までは、
決して準備は出来ていないのである。
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