「時にかなった癒やし」

50歳代男性


 一昨年、まだわたくしどもが九州の地にいたころ、大正4年生まれの鎌倉の父の体力が急速に衰え、耳も遠くなり、母の手助けが必要となりました。 もともと母は家事全般を手際よくこなす人ではなくノンビリとした性格で、父の介護は母にとってかなり負担であったようです。おまけに毎日一日中テレビの音声が家中に響きわたり、母はイライラして時折手荒な扱いを父にしていたようです。

 そんな日々が続いていたある朝、寝ている母に大きな声で「よっちゃん、よっちゃん起きなさい」と声がしたそうです。「眠いのに誰れ?」と思うと祖母の声でした。辺りを見回しても誰もおらず、ただ声のみが聞こえたそうです。「胤幸さんにやさしくしてあげなさい、やさしくしてあげなさい」と言ったそうです。それで階下におりてみると既に父は起きており、小さなボリュームでテレビを見ていたそうです。母はビックリして「どうしたの?」と聞くと「何ともない」と答えたそうです。隣に住む兄がやってきて、すっかり耳が聞こえるようになったのでビックリ。母は父に耳鼻科に行くように何度も奨めたのですが言うことをきかず、兄も説得したのですがダメでした。ただゆきつけの内科医院には通っていました。その先生が父に「どうして耳が聞こえるようになったのですか?」と聞くと、父は「神様が治しました」と答えたそうです。それを聞いて母はまたビックリ、今まで神様の「か」の字も言ったことのない父でしたから。

 ところがしばらくするとまた耳は聞こえなくなりました。母はもう何を言っても父が言うことを聞いてくれないし、齢なのだから仕方ないとあきらめていました。

 そんな状態の時に竹田先生が東京に特伝の講師として招かれ、帰りに鎌倉に寄って父のために祈ってくださいました。これがきっかけとなり一昨年のクリスマスに父は鎌倉雪ノ下教会で受洗しました。その直後から母一人の介護は限界であると判断、私どもは昨年春鎌倉に戻りました。

 最近母が椅子に座りながらウトウトしていると、今度は静かに、小さな声で「卓雄ちゃんに耳鼻科に連れていってもらいなさい、胤幸さんの耳は聞こえるようになります。」と声がしました。ねぼけまなこの母は妹が電話で言っているのかと思ったそうですが、それはやはり祖母の声であることに気付きました。耳鼻科行きなど父に言っても聞かないだろうし気が進まず、私にこの話を伝えるべきか迷ったそうです。一日目は私に黙っていたそうですが、二日目になって母がこれを私に告げました。私はこれを聞くとすぐに父の健康保険証を持って耳鼻科に行き、場所とりをしてから家内に電話、二人の連携プレーで父を耳鼻科まで連れてゆきました。あまりに素直に耳鼻科行きを承知してくれましたので、母は驚いておりました。

 さて、診察した先生曰く、「ここまで耳アカがつまった例は稀にはあるが、どうしてここまで放置していたのですか! まるでワインのコルク栓です!」と怒られてしまいました。その日から自宅で私が耳あかをやわらかくする液体を朝夕一回づつ父の両耳に注入し、三度の通院でかなりの耳アカを除去することができました。

 するとどうでしょう、母が冷蔵庫にあったバターの賞味期限を見て「平成19年・・・、今年は何年だったっけ?」と一人でつぶやいていると「今年は平成19年」と父が言ったので、母はビックリ。小さな母のつぶやきも聞こえるようになったのです。4度目の通院で聴力テストをしてもらいました。結果は両耳とも6.5。先生曰く「聴力は歳とともに衰えるもの、この年齢では平均以上です。ま、日常生活で不便はないでしょう。これから数ヶ月に一度耳掃除に来てください。」 

 耳鼻科からの帰り道、車椅子を押しながら「聞こえるようになってよかったね」と言うと、寡黙な父が「よかった、嬉しいよ、ありがとう。」と答えてくれました。既に聞こえるようになったことを実生活から確認していた母も耳鼻科の先生のお墨付きをもらい、「不思議なこともあるものだ、ママの声がして・・・」としきりに首をかしげながらも喜んでおりました。

 どうして今になって耳を聞こえるようにしてくださったのか、昨日フト思い当たりました。雪ノ下教会では聖日礼拝に出席できない方々のために毎月第4木曜日週日聖餐礼拝を行っています。次回は3月22日11時15分から。それに出席する旨昨日私が教会に電話で連絡しました。昼食が用意されるので予約が必要なのです。父は一昨年の12月この週日礼拝で受洗しました。耳が聞こえないのでは礼拝に出ても仕方ないとあきらめておりましたが、やはり主は今この時に教会で皆様と一緒に礼拝するよう導かれたのかと思います。母と家内と私の三人が付き添い礼拝に出席するつもりです。きっと昼食時に雪ノ下教会の皆様にことの顛末をお話しする機会があるでしょう。

 ではどうして昨年一時的に耳が聞こえるようになり、また聞こえなくなったのか。それは生前祖母が私にそっと話してくれたことにヒントがあるように思います。「芳子はとてもやさしい子だけれど、厳しい状況になると自分を見失うことがある」というような主旨であったと記憶しています。あの時は母の限界ギリギリの時であったようです。一時的にせよ母が一休みする時間が必要であったのでしょう。

『神のなされることは皆その時にかなって美しい。』 伝道者の書 3:11
 



 



「病室の母 受洗へ」


                         ある姉妹の証し


「主の御使いは『なぜ私の名を尋ねるのか。それは不思議と言う』と答えた。」(士師記13-18)

 私を小学生の時に知人に預け、それからずっと離れて暮らしてきた82才の母は数年前脳梗塞で倒れ滋賀県の病院に入院しています。年に二、三回しか行けない私は、病院に行く度に、突然身体の不自由を奪われ意志伝達の言葉もままならず、その上一緒に住んでいた一家も、又遠くにいる家族も殆ど見舞いに訪れない、皆から取り残された様な母を見てきました。見舞いを重ねる毎に、私は(人はどの様にして孤独や絶望を受け入れていくのだろう)と深く思う様になりました。と言うのも、ここ数年、母の顔がとても穏やかになり、心がどんどん澄んでいく様に見えるのです。

 今年の春、5月19日、母は隣のベッドの人に「娘さんが来てくれてよかったね。他に息子さんや娘さんは、いないの?」と尋ねられていました。母は、そうだ、と答えていました。私は痴呆が出たのかと一瞬心配しましたが、そうではなく独りぼっちの母の心はそう思い込む様になってしまった様です。そして突然母は「帰りたい、帰りたい」と泣き出してしまいました。しかし、病院を出て帰っても寝る部屋はあるけど、母の心が安まる場所はありません。「お母さん、ここも寂しいと思うけど、あの家(一緒に住んでいた義妹一家の家)に帰ったら、もっと寂しいのではない?」と言っても「帰りたい、帰りたい」と子供の様に泣き続けるのです。

 私は自分の事を話しました。幼い時から家族と離れ、ずっと一人で生きてきた私は孤独で寂しかった事。でも20才の時イエス様に出会ってからはもう一人ではなく、寂しい気持ちは消えた事。だからこれから年をとって一入でどこかにやられても、少しも寂しくはないと。だって、イエス様がいつもどこでも私と一緒にいて下さるから、と言いました。母は泣きながらも聞いていました。するとその時、不思議な事が起こりました。「イユス様、イエス様、アーメン」と何度も何度も言いながら母は泣いているのです。

   母もまた私と同じ様に、一人で生きて来ました。その中で創価学会の人々と出会い、もう四十数年熱心な会員でした。病院に見舞ってくれるのも学会の人の様です。自分の信仰を大事にする母は、私の主イエス・キリスト様の信仰も黙って理解してくれていました。互いに踏み込まない程の長い年月と共にある信仰生活でした。今更母に回心を勧める事など考えてもなかった私は、目の前で起こった事が信じられませんでした。とてもとても驚きました。

 「お母さん、イエス様を信じるの?」母は「アーメン。アーメン」と言いながら大きく頷きます。「お母さん、ここは教会ではないし、私は牧師ではないけど祈るね。」私は手を置き短く祈りました。母は又「アーメン。アーメン」と言いながら泣くのでした。

 私は帰り際に、生きてきたこれ迄の事を思い出す時や、寂しくなったり悲しくなったりした時には「イエス様」と呼ぶ事だけを母に勧めました。「主の名を呼び求める者は、誰でも救われるのです。」(ロマ10:13)

 九州に帰ってきた私は、これは神様の出来事だから牧師先生に報告しなければならないと強く思い、電話をすると竹田先生は「洗礼に行きましょう」と言って下さいました。

 そして七ケ月後の12月5日の午後、北風の吹く南彦根に先生は来て下さいました。母は先生が来て下さる迄「まだか、まだか」と心待ちにしていました。病室に入られ、母に手をかけ話しかけて下さるだけで、母はもう涙です。

 先生は、主の十字架の救いを語って下さり、滴礼を授けて下さいました、母は泣きながらも、はっきりと「アーメン。アーメン」と大きな声で繰り返しました。「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」ヨハネ1:13)

 神様は思いもかけない事をなさいます。先生も驚かれる程の鮮やかな回心は、神様からの大きな恵みです。先生が帰られた後、私は寝ている母の横で、ヨハネ福音書を読み始めました。すると寝

ていたと思ってた母が起き上がり、自分に聖書を読んでほしいと言うのです。声に出して読み始めると、母はまた泣くのです。そして安心した様に、また横になる母に「今度から来る時は聖書を持ってきて読むね」と言うと、顔を大きく振って「うん、うん。」と言います。

 私は、母にこの様な奇跡をして下さった神様を誉め讃えます。母の全ての重荷、罪を引き受け十字架にかかって下さったイエス様。クリスマスのこの時に、母を招いて下さった主。

「即ち、父が死者を復活させて命をお与えになる様に、子も与えたいと思う者に命を与える。」(ヨハネ5-21)

 御言葉が現実のものだと知らされます。思わずその主に手を合わせます。魂の奥深い所から涙がこぼれます。この主に私は何をお返しすればよいのでしょう。願いも思いもそして祈りも、全てを主に捧げます。  母の為に祈って下さった主と竹田先生、そして教会の皆様に、心からの感謝を致します。

P・S  九州に帰ってから、竹田先生は南彦根の近くの教会を当たって下さり、母の事をお願いして下さいました。礼拝に行く事も、聖書の御言葉を聞く事も叶わない母に、近くの牧師先生が母を訪問して下さる事になりました。真に主の深い愛を感謝せずにはおれません。                
 


           
 

「絶望、自殺未遂、そして得た主にある平安」


1981年 証集〔愛の泉〕より ある姉妹の証し


 私は、神様の御愛と先生を始め皆様方の温かい熱いお祈りに迎えられ、十数年前この教会に導かれた一人です。娘時代も家庭に入ってからも何一つ不自由なく、悩みも知らぬまま感謝の日々を過ごしていましたが、ある日突然思いがけない大きな問題が襲って参りました。よく世間にある夫婦間の問題です。

 それ迄そんな事は人ごとの様に思い、ただおとなしく優しい主人を信頼し感謝し従っておりましたが、ある日主人の引き出しから思いがけない事実を知り、大変なショックを受けその場で失神してしまいました。

 誰にも打ち明ける事も出来ず、この問題を抱えながら、その晩から私の心の闘いが始まりました。一ケ月、半年、一年と問題はますます大きくなるばかり、私の心も針を刺す様な痛みからこの身で耐えられぬ迄弱ってしまいました。

 毎日痛む胃を押さえながら半病人の様になった私は、自分はこの家にいない方がいいのだとノイローゼ気味になり死を選ぶ様になりました。ハンコを持って「不眠症で困っていますから」と町中の薬局を回り睡眠薬を買い集め、ある日曜日の午後、家族の留守にその薬を一つにまとめ、店の表の戸の鍵をしっかりとかけ部屋の真ん中に座りました。

 指先位の小さい節穴から差し込んでいる一筋の光をジーッと眺めながら、左手にあるコップの水を一口飲み、右手にある薬を持ち上げた時です。表の戸をトントン叩く音がします。私は黙って返事をしませんので叩く音は強くなるばかり「今日は日曜日だから皆で出掛けているんでしょう」と近所の方の声も聞えてきます。すると隣の御主人が「奥さん! お客さんですバイ。居んなさらんとでしょう」と戸をガタガタ揺すぶり始めました。あまりのやかましさに、とうとう仕方なく表の戸を開けました。そこにはセーラー服姿の女学生が立っていました。「すみません、このラジオの電池を下さい。友達とこれを持って出掛ける約束をしているんです」電池を受け取ると「あ〜良かった。ホッとした〜」と、それはそれは喜びながら走っていきました。

 再び戸を閉めて、暗い部屋に戻りました。その時です。部屋の真ん中にあるコップの水、睡眠薬の白い包紙が目に入った瞬間、自分で準備したこの場面にハッとしました。今の女学生のニコニコした顔、明るい声、そして私の娘二人の顔が次から次へと浮かんできます。恐ろしくなりました。一気にコップの水、薬の包みを台所の流しに走って行って流し、その下に座り込んでしまいました。

 しかしその様な事があっても、私の苦しみは全然変わりません。しばらくの間この家を離れてこの問題を忘れてみようと思い、娘時代ロマンチックな清潔な心に夢見て癩患者の友になりたいと願い、訪問した事のある鹿屋の療養所に半年でも行ってみようと決心しました。

 早速、二階の子供部屋に置いていた衣類等身の回りの整理から始めました。私の分は麻縄で強く縛りました。終って私が下に降りようとした時です。今迄静かに知らん振りして後向きで勉強していた筈の長男が、思いがけず階段の入り口に走って来て大きい両手を広げ、こちらを向きました。「お母さん、その荷物どうして?」「・・・・うん、最近こんなに体が弱ってひどいから、入院せねばならない時の事も考えて・・・・」「お母さん! うそついたら駄目じゃないか。僕、全部知っているんだ。今すぐにその荷物を解かない限り、お母さんを絶対に下に降ろさないよ。」

 自分の愚かさを責められた私は、一言も返す言葉もなく荷物を解きました。息子は、なおも「お父さんはちっとも悪くないよ。勿論お母さんも立派よ。今の世の中がどうかしているんだ、・・・・お母さんはクリスチャンだろう・・・・」子供から教えられ、違った意味で中々眠れない一夜を明かしました。息子も息子なりに心配し考えた事でしょう。

 でも翌日は「おはよう」と笑顔で降りてきました。右手に一枚の半紙を持って、さっさとそれを私がいつも決まって座る真ん前の壁に貼りました。「現役突破0大合格」八つの字が、真っ黒い墨で力強く丁寧に書いてあります。多くの店員達が毎日お弁当を食べたりお客さんもたまには通っていく部屋です。子供の気持ちも知らず、私はまたつい「勉強部屋ならともかく、この部屋はちょっと大げさじゃないね」と笑いながら言ってしまいました。不服そうな息子はすぐに「お母さん、いつも希望は大きく持つもんだよ。これは皆に見て貰う為書いたんじゃなく、僕はいつもお母さんに見て貰いたいんだ。お母さん、今晩から寂しく苦しい時にはこれを見ながら僕の受験の為に祈ってくれよナー。僕は今、一番お母さんの祈りが欲しいんだ。」〈お母さんの祈り〉― この一言に、私の心臓は突き刺された思いでした。

 数年後、私はこの熊本の教会をお訪ねする決心をしました。始めて教会をお訪ねし、長い間一人で苦しんでいた一切を先生にお話し致しました。始めから終わりまで静かにお聞き下さった先生は、全能なる神様を信じ、全てをイエス様に委ねるときっと最善に導かれる事、その約東の聖書を通し、まず主人の為に祈る事など優しく教えて下さいました。その後、私の頭に手を按いて涙を流しながら、力一杯お祈りをして下さいました。

 お祈りの中頃から神様の御愛がたまらなくなり、不思議な喜びが、平安がこの身に溢れ、体中が熱くて熱くてたまらなくなりました。その日はとても寒く分厚いコートを着ていても震える程で、帰る時に玄関で奥様が「コートをどうぞ」とおっしゃいましたが、とても熱くて着られませんでした。雪の降る中、コートを抱え「♪主にすがる我に悩みなし、歌いつつ歩まん」と賛美し帰りながら、その日から私に全く新しい希望の道が開けました。

 子供達への最も大切な母親としての祈り、そして主人の為の涙の祈りが始まりました。神様の御愛が迫り、御言葉が慕わしく、尊くてならない日々となってしまいました。その様な生活の中で、私の大きな間題もいつの間にか、本当に神様は真実に解決して下さいました。時には病いに倒される時もありますが、全てを神様に委ね従順し、祈り神様にお詫びします時に、不思議に@癒され、回復させて頂き、またA大きな事故からも、幾度となく神様から助けられ守られて参りました。

 以前の私の様に、一人で苦しみ涙を流しつつある方々がきっとこの地にもおられるに違いありません。この弱い私に全てに打ち勝つ力、勇気、希望、喜びを与えて下さいましたイエス様に感謝しながら、どうぞ一日も早く本気になって貴神様におすがりし、光の道を歩むお一人お一人にしてください!と祈り願う最近でございます。

@癒やし=胃下垂、子宮癌、他。 A大火事=引越し後、前居住地域一帯全焼。(日々祈りで座っていた所・座布団一枚分の畳丈が焼け残っていた)                   
 


            
 

「絶望から平安へ」

 30代女性


 私は1974年1月13日長女として生まれました。両親とも福岡の人間ではありませんが、 1980年私の小学校入学と同時に父の仕事の関係で福岡に移り、以来福岡を故郷と思って暮らしております。

 幼い頃から家庭の間題や父母との精神的な葛藤の中で育ったせいか、あるいは生まれつきの性質の為かは分かりませんが、私は自分の存在に強い不安感を持っていました。 生きる事から逃げたい願望があり、小学校に上がる前ですが、フェリーから海を眺めながら飛ぴ込もうと思い、その衝動と戦った事を今も覚えています。

 また逆に死ぬ事の恐ろしさで眠れなくなった事もありました。生きているのが嬉しくなく、それでも安心を得たくて自分ばかり見ていましたので、私は隣入への思いやりや配慮の欠けた冷淡な人間になっていました。その事で更に自己嫌悪と罪悪感が大きくなり、私にとって生きるのは苦痛でしかありませんでした。

 そして本当に愚かで、人生の節目ごとの的確な選択・判断が出来ず、周りの方々に大きな心配と迷惑をかけながら最初の結婚をしました。この結婚がこれまでの空しさを埋めてくれるものと思い込んでいましたが、神様が間に立たない未熟な者同士の結婚は、結局自我と自我とのぶつかり合いでしかなく、本当の喜びはありませんでした。

 その後、相手の金銭トラブルが主な原因で離婚し、二入の子供を連れて実家に帰る事になりました。実は長年、実家の近所にありましたこの新生教会に行ってみたいと思っておりましたが実現せず、昨年職場の同僚だった方に導かれ、初めて当教会を訪れました。

 当時私は生きる事に疲れ、絶望し、子供達が成長して私を必要としなくなった時が来たら死のうと心に決めていました。そんな私でしたが、教会に来て福音を聞き、神様の救いの存在を知り、野口先生からキリスト教の信仰について教えを頂く中で、この神様を信じなければ私は生きられないと思う様になりました。イザヤ書43章10節の「主は書われる、『あなた方は我が証人、私が選んだ我がしもべである。それ故あなた方は知って、私を信じ、私が主である事を悟る事が出来る』」との御言葉の通り、本当に主の憐れみによるものですが私にも決心が与えられ、昨年8月22日竹田先生よりバプテスマを受けました。

 救われるまでの私の人生は、「罪の支払う報酬は死である」という御言葉に象徴されていると思います。罪の問題が解決され、神との関係が正しくされていなければ、人間には死しかないという事実を今迄生きてきました。しかしイエス様を信じて受け入れた時、古いものが去って、新しいものにさせられたという確信がありました。

 まもなく竹田先生が病に倒れて早天祈祷会を休まれた事に促しを受け、翌日から私も早天に行く様になりました。この祈祷会での御言葉と祈りの中で深く傷ついていた私の心は主の臨在と愛によって完全に癒され、生きる喜びに満たされている自分を発見しました。そして主の恵みに満たされた私は、この人生を神様に捧げて、もっと意義深い悔いのないものにしたいと心から願う様になっていました。

 この様な中、今年一月に竹田先生から結婚という形での献身を勧められました。私には子供もおりますし、どうしてという思い大変驚きましたが、祈って決めさせて頂く事になりました。初めは私に出来る筈がない、でも御心なら従いたいとの思いの間で迷いました。祈らせて頂くうち何か成すのは私でなく、主御自身だという思いに至った時平安と確信が与えられ、献身を決意し先生にお返事致しました。

 献身を決めた事で私の家に剣がもたらされましたが、その時も日々の御言葉が慰めと導きでした。長い間我が身が可哀想で両親を裁いたり恨んだりしてきた事について悔い改めさせて下さる様に、そしてどんなに怒りや嘲りを受けてもへりくだって柔和に応じられる様に主に祈りました。

 まだ十分には出来ず祈りの戦いの中にありますが、マタイ伝にあります「私は柔和で謙遜な者だから、私のくびきを負い、私に学びなさい。そうすればあなた方は安らぎを得られる」との御言葉通り、今は様々な出来事の中にも平安を得ております。

 これまで申し上げてきた通り、私には何ら神の前に人の前にも誇れるところはありませんが、主が憐れんで召して下さり、今日がある事を深く感謝致しております。また、何事においても足りない者を赦して下さり、祈り支えて下さる教会の皆様にも心から感謝致します。今の私達にとって、物質的には満たされているのに生きている事を喜べないという人達の存在は、深刻な問題ではないでしょうか。その様な人達に、また様々な苦しみや不安を抱えている人達に、キリストにある喜びをお伝えする努めを頂きます事を幸いに思います。今後は共に祈り、主に喜ばれるよう神と教会にお仕えしたいと思っております。
 

 2005年7月3日


                           
 


              
  
「アルコール依存症からの解放」

40歳代男性


 私自身は42歳になりますが、18歳で社会人になってから 24年間、殆ど毎日の様に酒を飲んでおりました。「酒を楽 しむ」うちは良かったのですが、ストレスが溜ると「酒に 頼り発散する」様になり、4〜5年前からは悩み事や色々な 問題から「アルコールに逃げる」様になりました。人生 の闘いから逃げ回り、頻繁に飲む様になり、酒におぼれて いきました。罪の意識が薄れ、飲酒運転や浪費を繰り返し 家族に心配や苦労をかけながら、さらし続ける醜態と重ね 続ける罪の山。

 体も病みがちになり、健康診断の度に主治医からアルコ ールを控える様忠告を受けましたが、どうしてもやめる事 は出来ませんでした。この様な生活を続けていたので、当 然の報いとして、破滅の時も確実に近づいていました。

 二〇〇三年九月にコップ一杯程の吐血をした時、胃カメ ラを飲んだところ、軽い胃潰瘍が出来ていましたが、それ 自体はさほど心配はないものでした。ところがカメラを胃 に通す際に、偶然にも食道静脈瘤が発見されたのです。肝 硬変が原因で、食道の血管が六本程今にも破裂しそうなく らいに隆起しており、主治医から「静脈が破裂すれば間違 いなく致命傷であり、禁酒して療養しなければならない」 と宣告され、死の恐怖を実感し心から脅えました。

 私は禁酒を決意し、必死で努力致しました。妻の協力も あり、年末年始を何とか乗り越えて「アルコール」という 名の悪魔から逃れられたかと思われました。しかし数ケ月 経過し、体の痛み(肝硬変の自覚症状)が薄れたら、死へ の恐怖すらも希薄になり始めました。

 気が付くと私はまたしても酒を手にしていたのです。弱 い自分の心をあざ笑い、世間を呪いながら泥酔してごまか す日々に戻ってしまったのです。(もう駄目だ、しようが ない。20年以上飲み続けてきたから、今更禁酒なんて無理 無理)と自分に言い訳をしながら、家族の思いを踏みにじ って堕ちて行く破滅への道。人が見たら破滅への道を歩く 救いようのない愚か者、それが私でした。

 しかし、そんな私にも救いはあったのです。教会へ通う 妻の付き添いで礼拝に行き、何気なくめくっていた聖書に 懐かしさを感じたのです。(そう、これは読んだ、ここも読んだ事がある。) 幼い頃教会へ通い、聖書の教えを受けていた自分を思い出 し嬉しさ半分、今の自分を恥じる事半分の複雑な心境でし た。それからはメッセージを聞く度聖書を読む度に心を打 たれ続けて、主に逆らっていた自分に気が付きました。 (自分にではむく、主の力にすがってみよう)

 そうです。簡単な事だったのです。心が晴れたら逃げる 必要がなくなり、あれ程悩み家族を困らせる原因となって いた「アルコール依存症」が治ってしまったのです。それ もたったの三ケ月で。ハレルヤー!

 主よ、心より感謝致します。私の迷っていた心をお救い 頂き、導いて下さった事を! これからは、やっと出て行っ た悪魔が二度と戻ってこない様に、空き家になった心の中 をきれいに掃除して、聖霊様に満たされる様に努力します。



 
  
「妻の通う教会に」

40歳代男性


 私のキリスト教との最初の出会いは私が五歳の頃でし た。一ケ月程入院した病院で同室だった子供のご家族が とても熱心なクリスチャンでした。入院したその日の事は 今でも覚えています。検査の為食 事の出ない私の事に気を遣い、自分達の一切の食べ物を私 の方から見えない所に隠して下さったばかりか、その子供 に対しても気を遣う様に優しく教えていらっしゃいました。 それから退院するまでの間、聖書の事など色々聞かせて 頂き、また退院後もしばらくの間、校区は違いましたがそ の子供を頼って教会へ通いました。

 次の出会いは、家族を持ってからでした。二千年に妻が 病いに倒れ、入院した際に同室で親しくして頂いたのが小 宮さんでした。小宮さんのお勧めで妻が教会に通う様にな り、それまで病気や生活の悩みでふさぎ込んでいた妻の心 が解け始めたのに気が付き、私は複雑でした。(夫の私で も無理だったのに・・・) 今、考えれば自分で信じれな かったという意味から、焦りと苛立ちで私の心は一杯でした。

 告白致します。 妻を病気になる程悩ませ、苦しめた原因は私のずさんな金 銭感覚と甘えた性格です。酒を飲み、浪費を繰り返す私を 何度も許し、立ち直りを信じてくれた気丈な妻。遊び盛りなのに、 家計の為に節約に協力してくれた優しい娘達。こ のかけがえの無い宝を、私は何度も何度も踏みにじったの です。(このままではいけない)(立ち直らなければ) (頑張らねば) 心の中では十分反省して分かっていても、拭っても拭っ ても気が付くと悪の心が私の中に立ち上がっていました。

 もう駄目かと諦めかけていた私が、妻と一緒に教会へ通 える様になったのは幸いでした。「日々、心の雑草を抜きなさい」 「誰でも心は弱いので、救いを信じて戦いなさい」「まだ信じないのか」 竹田先生のメッセージを聞きながら、涙が止まりませんで した。そして私はクリスチャンになって、自分の罪や弱さ と戦う事を決意しました。

 故に私は、主イエス様が私の罪の為に十字架にかかって 死んで下さり、三日後に復活され、今も私の心の中に生き ていらっしゃる事を信じます。
 (9/26旧受浸)


 

「茜雲(あかねぐも)の様に輝いて」

 -ある証言- 津嘉山 澄 (元メソジスト教会婦人伝道師)


 敗戦の色も濃くなりつつある中、十月の空襲で那覇市は 火の海、大道の家は負傷兵で満杯。童顔の抜けきれない若 い兵隊達が「お母さん、お母さん」と呻き苦しんでいた。 「日本軍は負けたふりをしているだけでこれは戦略、敵を 誘き寄せておいて、後で打ち破るのです。」と我が家に間借 りしていた通信隊々長に聞かされ、対馬丸撃沈も一般には 報道されず、その二か月後何も知らず主人母子供三人と共 に最後の疎開船に乗り込む。

 いわしの缶詰の様にぎゅうぎゅう詰めで乗船すると、一 人一人救命具が渡され、死を覚悟しての旅と感じられた。 見送る人もなく、夜陰に紛れて那覇を出港。昼は島陰に隠 れ、夜は燈火管制のもと鹿児島港に向かう。まもなく敵の 潜水艦に追跡され、魚雷攻撃を避けつつジグザグ航海を続 ける。

 三日目の夜中三時頃、真っ暗闇の中大爆発音。敵艦から の魚雷攻撃。船長は大声で「無事魚雷を避けた。しかし二 度目の襲来を予想し、全員救命具着用。号令が出たら海に 飛び込む様に」との指令。船中の人々は恐怖におののき、 泣き叫ぶ者、わめく者の地獄絵となった。

 私は子供を背負い救命具を着用。ところが母の物がない。母の隣にいた明 らかに70才以上の老人(70以上には割り当てが無かった) が「これは私のものだ」と言い張って返してくれない。母 は争わず「私は死んでも天国に救って頂けるから大丈夫」 と落ち着いていた。主人は家族を誰もいない上甲板に連れ て行き、家族抱き合う様にひざまずいて祈った。「神様、 今、私達は海の藻屑になるかも知れません。魂を御手にお 委ね致します。御国に救って下さい。ただ一人残される次 男(小4・既に学童疎開)が、たとい孤児になってもどう ぞ彼を守って下さい。」 死に対する恐れはなくなり、平安 だったが、次男の事を思うと涙が出た。

 やがて大音響が響き渡り、水面高く水しぶきと火柱が立 ち上った。疎開船を執拗に追いかけて来た潜水艦に、こち らから発射した爆雷が命中。訳が分からず人々はまた泣き 叫び大混乱に。やがて無事助かった事を知り、皆互いに喜 び合った。九死に一生を得る思いで、鹿児島港へ。船腹に は魚雷のかすめた傷跡が何本かあり、神様の特別な守りを はっきりと知らされた。

 子供達の疎開先を捜し出し「生きて会える日があったの ね」と嬉し泣きしながら次男を抱き締めた。連れて帰る時 仲良しの潔君が「おばさん僕も連れて行って」と言い出し ついてこようとする。他の子供達も羨ましそうに見ている。 「心配しないで。もうすぐお父さんお母さんが迎えに来る から、それまで待ってなさいね」となだめすかして別れた が、本当に辛かった。

 見送る子供達の寂しそうな顔、顔・・。既に親が亡くなっ ている子もいた。泣きながら別れた。多くの子供達がその まま迎えに来る人もなく、孤児となって残されたであろう。 あの潔君も。戦争ほど嫌なものはない。こんな辛い、悲し い思いをするのかと思うと、本当に戦争の恐ろしさを身に 沁みて感じるのだった。

 


              


「戦争体験記」 音声でお聴きになりたい方はここをクリック(44分)

  
「戦争体験記」

牟田口 實


 昭和初期の戦争の時代を生きた私は、昭和二十年八月一五日旧満州(現中国東北部)の広野に立っていました。 七月一日に朝鮮第二三七部隊から甲種幹部候補生として旧満州牡丹江の幹部教育部隊に分遣され猛特訓をう けていましたが、八月九日ソ聯軍の侵攻により教育は中止され出陣、弾薬輸送の任務についていたのです。

 その後武装解除をうけ千人単位の大隊が編成されて「掖河」の部隊跡に収容されました。 収容中は物資(食糧、被服、資材等)の貨車への積込作業をさせられました。物資輸送が終わり、 次は我々の輸送となりました。「東京ダモイ(帰る)」という噂を信じて貨車に乗り十月十九日貨車は東に向かって動 き出しました。国境の街「綏芬河」を通過してソ聯領に入りました。東に行けば日本海の港ウラジオストックです。 ところが貨車は北上した後、西へ西へと反対方向へ走り続けました。「東京ダモイ」の夢は消えました。

 満州を出発して十四日目の夜半貨車は停車し下ろされました。あたりは一面一メートルをこす雪の広野でした。 直ちに貨車から物資の卸下作業がはじまり、作業要員以外は焚火のそばで夜明けを待ち食事の後、山沿いの雪道を 三十分ほど歩き原始林の中に板塀と鉄条網に囲まれたラーゲル(収容所)の門前に到着しました。そこで所持品検査 が行われた後、門の扉が開き衛兵が何度も人数をかぞえてやっと所内に入りました。

 所内には丸太造りの建物が八棟ほど並んでおり、四隅には望楼が立っており警備兵が自動小銃を持って監視し ていました。この収容所は以前ドイツ軍の捕虜が収容されていたということで室内には枠のない二段式寝台が並んでいました。この狭 い寝台に防寒外套を着たまま毛布一枚を被って重なり合うようにして寝るのです。所内には電灯はなく、松明や白樺の皮を焚いて照明 にしていました。特に冬期は日照時間が短く明るいのは午前十時頃から午後二時頃までです。松明を焚くと寝台に南京虫がゾロゾロ 出てきて、ゆっくり寝ることも出来ない全くひどい所でした。

 夜中に寝台の上段から転落して怪我をしたり、ペチカの周りに数入が集まって暖をとっている時、前かがみになって うつむいているので、声をかけてゆすってみると前に倒れたので見ると死んでいたとか、 朝起床時になっても起きないので、隣の戦友がゆすぶると死んでいたということが度々あ りました。この地域の冬期の気象条件はとりわけきびしく、風の強いときには体感気温が零下五十度、 六十度に下がることもしばしばで、敗戦、捕虜、シベリヤ抑留という急激な環境の変化、少量の粗末な食事に よる飢えと極寒の直撃は日本人捕虜の心身を打ちのめしました。体力は極端に消耗し、栄養失調、下痢、疥癬、 アメーバ赤痢や発疹チフスなど伝染病が蔓延して多数の死亡者を出したのです。

 この収容所はバイカル湖南端から約五百八十キロのタイシェト地区クヴトークの第七収容所だったのです。 悪環境のもとに死者が続出し昭和二十年末から翌年の春までに約二千名近い死亡者を出したという文字どおり「死の収容所」 であったことを帰国後に知りました。死亡者は、初めのうちは元僧侶の読経、松葉で作った焼香等で懇に弔い一人ずつ丁重に 埋葬されましたが、死亡者の増加で墓地の穴掘りが間に合わなくなりました。収容所内に屍室があり、続出する死亡者の死体は素裸に されて、まるで丸太のように積み重ねられました。零下四十度五十度の酷寒の中、死体はカチカチに凍っていました。

 酷寒の中の穴掘りは容易ではありません。地面は凍結しており、つるはし、スコッブははじき返されます。焚火をして解かし 軟らかくなったところを急いで、つるはし、スコップで掘るのです。この作業を昼夜兼行で行ない、 やっと埋葬できる穴が出来上がります。死亡者の増加に伴い横に長い壕を掘り十人も 二十人も一緒に埋葬するようになりました。墓穴が完成すると、屍室の死体を橇に積んで丘の上の墓地に運び埋葬しました。 忘れがたいことです。ご冥福を祈ります。

 平成三年八月に舞鶴市主催の「シベリヤ墓参団」に幹部候補生の戦友四人が参加し現地 を探索し墓地跡と思われる所に日本から持参した墓標を建立して現地で死亡した戦友達の 冥福を祈りました。彼等の献身的な行動に感謝しております。

 昭和二一年四月作業隊が編成され出発しました。それから二年ニケ月の間、伐採作業、建築工事、道路工事、 鉄道工事等に従事しました。その詳細は紙面の都合で割愛しますが、どの作業も常に危険と隣り合わせで、 すぐ近くでの事故死の現場に度々遭遇しましたが生き永らえて、昭和二三年六月ナホトカから舞鶴に上陸、 復員しました。

 この体験記に、どうしても加えておかなければならないのは母のことであります。 私の母は昭和七年父と死別、当時私は小学一年生でした。ホーリネス教会の信者で、母一人子一人の家庭で私を育て、 やっと学校を卒業してこれからというところで、一入息子の私は軍隊に入隊しました。入隊の前夜、母は真剣に 祈った後に、次の聖句と歌を示しました。

詩篇 九一篇 七節
 千人はなんじの左にたふれ
 万入はなんじの右にたふる
 されどその災害は
 なんぢに近づくことなからん

日露戦争に向かう弟を思い与謝野晶子が詠んだ歌
 あ々をとうとよ君を泣く
 君死にたまふことなかれ
 末に生まれし君なれば
 親のなさけはまさりしも
 親は刃(やいぱ)をにぎらせて
 人を殺して死ねよとて
 二十四までをそだてしや

 終戦となり、母は私の消息不明のまま京城(現ソウル)から本籍地(八女市)に引き揚げ私の帰りを待ちました。 その間、母と教会の皆さんの真剣な祈りが応えられて私は復員、三年振りの再会をいたしました。 私の信仰の原点であり忘れることの出来ない思い出です。

 五十九回目の終戦記念日にあたり、戦争を体験した人より、 歴史として知る人が多くなった今、過去を語り継がなくてはならないと思います。知らないことからどんな悲惨が起こるか。 この前の戦争に私どもの世代がなぜ反対しなかったのか不思議に思われるかも知れませんが、誤った教育によって洗脳され 正しい判断力を失い、意識しない間に戦争に向かって進んでいったという反省があります。 戦争は悲劇しか生みません。自国民は勿論相手国の人々をも傷つけます。イラク戦争、自衛隊派遣等「この道はいつか来た道」 という気がしてなりません。永久平和を切に祈ります。


 
 
「主が共におられたので」

20代女性

 私は、今年四月に中国の抗順市から日本に来ました。現在、福岡で日本語を勉強しています。私は二年前にアメリカから帰ってきた祖母から福音を聞き、神様と出会いました。最初は神様についてよく分かりませんでしたが、主の日の礼拝を通して御言葉と聖霊様の働きによって神様について正しく知る事が出来ました。主は全知全能の神様である事、本当に私を愛している事、そしていつも慈しみをもって共におられる喜が分かりました。

 私は日本に来る前、留学の手続きで多くの苦しみと挫折を受けました。もし主が共にいらして守って下さらなければ、私は日本に来る事が出来なかったでしょう。実は去年の七月、東京への留学を申講し、在留資楮を取得出来ましたが、仲介機関のミスで留学がだめになりました。ずっと来日を楽しみにしていた私は、全ての留学の準備をし、心も日本に飛んでいました。しかしだめになった知らせを聞いた時、ショックを受けて苦しみました。そして落ち込んで、全ての希望を失いました。

 心の内に、主にお聞きしたい疑問がありました。主はどこにいらっしゃいますか? いつも敬虔に祈っていたのに、どうしてこんな長い辛い道を、一入ぼっちにされましたか? 主は真実な方であります。教会の牧師先生の□を通して私にこう伝えて下さいました。「たとい死の陰の谷を歩く事があっても、私は災いを恐れません。あなたが私と共におられますから。あなたの鞭(むち)とあなたの杖、それが私の慰めです。」

 主に感謝します。そうです、もし主の守りがなければ恐らく、私はその時もう倒れて再び立ち上がることが出来なかったでしょう。神様、あなたの僕である私は御前で悔い改めます。あなたを疑い、あなたに文句を言った事を悔い改めます。どうか御血潮をもって私の心を清め、私を新しく造り変えて下さい。そして今年、私は信仰をもって祈りながら、仲介機関によらず、直接日本の学校と運絡を取り、留学に成功しました。ハレルヤ、主を感謝します。私は、イエス様が神の一人子であり、私の罪の為に十字架にかげられ、三日目後に復活され、今も生きておられる事を信じます。

(2004年6月20日受浸)


 
  
「川向こうの教会にさそわれて」

20代男性

 私は今年四月に中国の沈陽から日本に来ました。九年前に中国でホテルでコックの仕事を始めた時、私は仕事の為に日本語を少し勉強しました。その日本語の先生はクリスチャンでした。その先生は何回も私に福音を伝えてくださったので、私はキリスト教に興味を持つようになりました。しかし残念ながら仕事は大変忙しく、毎日12時間働かなければならなかったので教会へ行くことが出来ませんでした。

 主の恵みによって、私が日本へ来る事が出来た事を感謝します。そして日本語学校の寮に住むようになりました。ある日、私と一緒に住んでいる一人のノンクリスチャンの友達に「川の向こうの教会に行ってみようか」と誘われて初めて教会へ来ましたが、来た時もう遅くて礼拝はほとんど終っていました。しかし、神様は私の為にきちんと福音を聞く時間を備えて下さいました。午後、教会の中国人の兄弟姉妹と一緒に交わって御言葉を聞きました。その時初めてイエス様が私の罪の為に死んで下さった事が分かって、信じました。

 その後、溝□家の区域礼拝に参加させて頂きました。その時、竹田先生は詩編の23編を語って下さいました。御言葉を通して、私は自分が迷っている羊の様な存在で、羊飼いであるイエス様を必要としていることを感じました。そして兄弟姉妹達との交わりの中で、神様の愛をも感じました。

 イエス様は、神様の一人子です。しかし私を愛して、私の罪の為に十字架にかけられて死んで下さいましたが、三日後に復活して、天に昇られました。私は、イエス様が私の救い主であると信じます。 (2004年6月20日受浸) 

                                   




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